詩人は一種の芸術的な狂乱状態のうちに創作をおこなっていると了解される。
好むと好まざるにかかわらず、
そういった状態の中で書かれるのだ。
創作活動の舞台裏は形の整っていない思考ややっととらえた真意に、
迷いながら悩むことが見てとれる。
全体の見通しがつくまでにひらめいた言葉が、
そのまま無数の観念のひらめきのままある。
完全に熟していかないまま書き付けられることもある。
手に負えないものとして残るものもあるかもしれない。
空想はその詩人の溢れるばかりの感性の中に表れるもの。
注意深く選択されたその言葉は人々に対するものよりも、
詩人の中に存在する本能に似た言葉によって書かれる。
インスピレーションは詩作理論の中心にくる概念そのものだ。
詩人の活動力は自分でもどうしようもない大きな力によってもたらされている。
信じがたいほど短期間で書き上げられる。
詩人はもはやひとりの個人ではなくて、
インスピレーションの体現者である。
自然が持つ救済力ではなく、
詩人は一行一行創作のために口述する。
自分の体や心の中にわずかでも迷信のかけらを残して持っている。
自分は単なる化身。
代弁者であって圧倒的な力の媒体となっているにすぎない。
聞くだけで深く求めなくてもわかってしまうのだ。
受け入れるだけで何によって与えられたかは問わない。
ある思考が必然性を持ってためらいなく稲妻のようにひらめく。
詩人には選択の余地などあろうはずがない。
その時の恍惚状態のまま滝のような溢れかえる意識の連続によって、
書きつづけられる。
この行為はなされたものにだけ与えられるものである。
光に満ちあふれたものに帯びている。
そのリズム感に溢れたひとつの本能によるリズムを察知することが不可欠だ。
すべては知らないうちに絶対的に自由に出来上がる。
つまりは何もかもが自然に書かれるべきして書かれる。
「真実」の言葉とはインスピレーションを通して、
完全に発狂しないかぎり獲得できない。
この予言者のような最後に下す不変の判定こそが必要だ。
過去何世紀にわたって詩において何か新しいことをやってのけたものなど、
誰もいない。
詩人は新しくも古くもない。
詩人はいつの時代も立ち上がる。
時代に要求されていると気づいたとき、
詩人は詩人になる。
詩人たちへ、
詩人に今こそなるときだ。
御供 2000/7/24
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