私が詩を書きはじめたのは多分10歳の頃からだと記憶している。
だが、20代から30代の前半は詩よりも雑誌の文字と遊んでいた。
今までにどのくらいの詩を書いたか定かではない。
ここに記録している詩が1200を超えて、
未だ800あまり残っている。
この2000はここ20年の詩である。
詩の最後に1998年から始まっていることからわかるのだが、
それ以前に書かれた10年の詩が抜けている。
精力的に書いた10年間の奇跡が残っていないのである。
探しても探しても見つからないのである。
20年に2000とすればあと1000はあるはずなのだが失われてしまった。
それはそれでいい。
パッションが絶好調の時に書いた詩がない。
見つからないことを惜しんでも仕方ないと決めている。
いつかその詩が出てきたらラッキーくらいに考えられるようになった。
1000もの私の詩が風の彼方に消えたことも何かの意味があるのではないか?
驚くほど膨大な数の詩を前にしている。
しかも似たり寄ったりの詩であることは確かだ。
風がささやいたのをこの間聞いたのであるが、
ひとりの詩人が一生のうちに言えるのはひとつかふたつ多くて三つであるという。
同じような言葉を操ってゲームをしているのが楽しいのだ。
私の詩の本質が変わったらそれは私の詩ではない。
私の詩は私が生きてきた証しなのである。
いわば私がこの時代を生きたこと、
そうして私が雑誌の原稿で文字と遊んだのとまったく違う次元。
いわば私がこの時代を生きた告白だ。
未熟な私の文字を修正することも、隠蔽してはずがしがることもないのだ。
告白として私のルールをいつわりなくそのまま書いたもの。
無知の私の少ないボキャブリーを繰り返し、
書きたい時に書きたいままに書いたもの。
言葉のゲームでいつも負け、勝ったことのない私の平凡な言葉。
出来の悪い韻やしまりのないリズムかもしれないが、
今私たちが生きているこの美しい惑星地球の様々な問題に対しての意見。
欠陥や山ほど抱えた未解決な問題を否定するのではなく、
肯定の営みとしてとらえ、楽天的な馬鹿な私の意見を書いている。
書きたいから書いている。
試行錯誤するたびに一定のレベルの成熟。
あるいはまた倦怠さえ必要であることを書いている。
難しいことはわからないが無関心さえ必要であると書いている。
今も書いていて私は思い知らされた。
書くだけ書いて横を向いているだけだと思い知らされた。
そして私は未だそこまで達していない。
こうして書くこと以外できないのだ。
おそらくもう少し書き続けて出発点に立てることも自覚した。
いつまで書き続けていられるかだけはわかっている。
私が空気を吸って生きているかぎり、
一日も書かさず書いているだろう。
もしこんなくだらない詩でも目にしてくれたり、
聞いてくれたらうれしい。
そんな機会があなたにあったら聞くだけ聞いて、
すぐに記憶から消してもいい。
笑ってやって忘れて欲しい。
御供 2010/11/17
PS:LIGHTS&MUSICのポエトリーを前にして書きました。
0 件のコメント:
コメントを投稿