2010/10/03

自我


われわれにとって自我とはとるに足らないもの。
自我心など抱いてみたところ何もなりはしない。
自我はあらゆる人間になんらかのカタチで内在している。
そういう意味ではわれわれの共有物であると言っていい。
個人的なそれではなく、
あのもうひとつの不姿勢はやはり必要なのである。
たとえばある人が自分の敵を愛したとする。
その時、キリストの不姿勢が現れてくる。
つまりその瞬間、その人はキリストになる。
あるいはシェイクスピアの詩を読んだとする。
その時われわれはなんらかのカタチでその詩を書いた瞬間のシェィクスピア、
あるいはダンテになる。
一言で言えば不姿勢というのは他人の記憶の中、
あるいはわれわれの遺した作品の中に存続し続ける。
ある作品が忘れ去られたとしても気にすることはない。
私が詩を読んだ時、誰も浮かんでこない。
でも私は思う。
作者が浮かんでこなくてもいい。
どんな時代に読まれたかで十分だ。
詩とはそういうもの。
どういう時代に読まれたものか、
それさえわかればいい。
誰が読んだかなど関係ない。
詩があるべきときにあるという不死性について言えばそれでいい。
私たちは先祖の血を引いている。
われわれはこの世界がより良いものになればいい。
重要なのは不姿勢なのである。
御供 2001/3/21

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