2010/10/16

平和運動家のルイス・スズキさん


はじめに
日米戦争とも言われる太平洋戦争の2年前にあたる1939年(昭和14年)、愛
知県出身の両親を持つ19歳の少年、ルイス・スズキは日本に家族を残し単独
で帰米した。ルイスは1920年(大正9年)にアメリカ・カリフォルニア州で日
本人の両親から生まれたアメリカ国籍を持つ日系アメリカ人二世であったた
め、アメリカに向かうことはルイスにとって生まれ故郷へ帰ることを意味し
ていた。そして1941(昭和16年)年12月7日に日本軍による真珠湾攻撃が起こ
ると、アメリカ国籍を所持していたルイスはアメリカ軍の一員として両親の
国、そして自身も青春の10年を過ごした日本を敵に参戦することになった。
本稿は、現在もアメリカ・カリフォルニア州バークレー市に在住する一日
系アメリカ人二世画家、ルイス・スズキの生活史にスポットを当てながら、
マクロなレベルでは把握を困難とする二つの国籍を持った人間の生き様に近
づき、特にアメリカ・日本との戦いであった太平洋戦争時において両国籍を
持っていた者たちにとっての戦争経験とは一体どのようなものなのであった
のか、さらにルイスの生涯における人間形成の柱となった反戦思想がどのよ
うな影響下に発展していったのか、生活史法を用いながら検証する。ルイス
は「日系アメリカ人」の中でも少年期に両親の国、日本に滞在し日本の教育を
論 文
■名古屋外国語大学現代国際学部 紀要 第5号 2009年3月
ある日系アメリカ人帰米二世画家の口述生活史
―戦時下に生きたルイス・スズキの反戦思想の展開を中心に―
Oral History of a Japanese American Kibei Nisei Artist;
Focusing on the Pacifism Developed by Lewis Suzuki during the War-era
吉見かおる
Kaoru Yoshimi
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受けた「帰米二世」であったことから、一般的な日系アメリカ人とは類を異
にしていた。さらに、その中でも「日系人画家」という一般の日本人コミュ
ニティとの連帯というよりは、日系人アーティストやその他マイノリティ・
アーティストたちとの繋がりを強く持ったという特異な立場にあったこと
は、ルイスの生活史を追うにあたり特徴付けられる要素である。
ルイスは、戦前戦後とサンフランシスコ・ベイエリアにおいて地道に芸術
活動に励んできた無名の日系アメリカ人画家であり、80歳代後半に差しか
かった現在も健在である。しかし、この無名な人物の生活史をたどることで、
移民研究において必要視されている“from-the-bottom-up-approach”が言及
する、常に歴史の対象から外されてきた一般の人々、あるいは社会の底辺に
置かれた人々から見た新たな歴史事実を浮かび上がらせることができるので
はないかと考える。
生活史の概念とその意義
ここで本稿の手法となる生活史について少し整理をしておく。生活史(ラ
イフヒストリー)とは、生活物語(ライフストーリー)を含む上位概念であ
り、基本的には個人の生涯を社会的文脈において詳細に記録したものを指
し、その手法は統計的サンプリングが重要視された従来の社会調査法である
「量的研究法」に対する異議から始まった「質的研究法」である。一般的に生
活史研究では、ライフヒストリーやライフストーリー、オーラルヒストリー
の他に、個人的記録(パーソナル・ドキュメント)、人間記録(ヒューマン・
ドキュメント)、生活記録(ライフ・ドキュメント)などの用語がよく使わ
れ、後者の三つはいずれもほとんど同じ意味で扱われ、日記や手紙などの文
字資料を中心にライフヒストリーを包括的に意味する用語である。
社会学において生活史研究が注目されるようになった背景に、個人や集団
における主観的側面を理解しようという方向性がでてきたことが挙げられ
る。この手法が正式に実践され始めたのは1940年代のアメリカ、コロンビア
大学においてであり、当時は20世紀の重要な出来事を語る政治家、軍幹部へ
ある日系アメリカ人帰米二世画家の口述生活史■
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のインタビューがその調査の内容であった。そして1960年代、70年代に入る
と、公民権運動やその他の社会運動に続き、アメリカ社会で力を持たなかっ
たグループ、すなわち労働者、少数民族グループ、若者、移民、また女性た
ちが「底辺から」書かれた歴史、あるいは普通の人々の視点で書かれた歴史
を要求するようになった。なぜなら、それ以前の社会調査は「個人」をその
ままつかみとるのではなく、単純にその属する社会構造に還元されていたた
め、実際に聞き取り調査の対象となった「生き生きとした個人」は記述され
る段階で抽象化されてしまっていたからである。また、日本においても1970
年代から生活史法が積極的に導入されるようになり、その一つの契機となっ
た著書『口述の生活史』の中で中野は、「ありきたりの類型で割り切ってし
まったような人間類型に人々を当てはめて、推量的に図るというふうに表面
的な、機械的な操作の対象にしてみたとしても、それは本当に人間が人間と
して研究できない」と、それまでの社会調査法を批判している。有末も生活
史研究の可能性を、「歴史的事実の記述を中心とした政治史、外交史、経済
史、社会史などに比べると、生活史には人間主体の『生きる意味の探求』の
側面が重要視されている」と主張している1。
本稿は、生活史法の中でも口述生活史法(オーラルヒストリー)を用いて
ルイス・スズキの人生を考察している。オーラルヒストリーとは、個人の人
生経験における特定の局面に注目する手法であり、その目的は歴史的再構成
であることから、過去のある出来事の現場にいたり、その出来事に参加した
りした人を対象としたインタビューで構成されるものである2。したがって、
ルイスの聞き取り調査を行うにあたり、筆者は2003年3月17日にカリフォル
ニア州バークレー市にあるルイス宅を訪ね、約2週間の滞在中にルイスから
の聞き取りを行った。本稿は、ルイスからの聞き取りと、また筆者がルイス
から渡された一本のビデオテープ(以前、ルイスは自身の生活史の口述を約
2時間半に及ぶホームビデオに収めている)を基に、筆者が編集、考察した
ものである。ルイスの口述は英語でなされたが、本稿はその口述英語をあえ
て直訳による日本語に変換し記載している。したがって、読者はその翻訳に
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何らかの違和感を抱くかもしれないが、ルイスの独特な日本語の語りを勝手
に用いることを避けるための筆者の考慮である。また、可能な限りルイスの
口述記録を関連文献資料などを用いて傍証し、事実と確認できるものは注で
補っている。
最後に、本稿で用いる用語に関する補足として、アメリカに渡り日本の血
筋を持つ者たち全体を「日系人」と呼び、その移民の第一世代を「一世」(出
生は日本)、第二世代を「二世」と呼ぶ。日本国籍だけを所持する日系人の場
合は「日本人(一世)」、また日本・アメリカの二重国籍あるいはアメリカだ
けの国籍を所持する日系人を「日系アメリカ人」と呼ぶ。さらに、二世のう
ち、日本に来て教育を受け、その後アメリカに戻った人々を「帰米」と呼ぶ3。
1.ルイス・スズキの生い立ち(生誕から少年期まで)
ここでルイスの生い立ちを振り返ってみたい。ルイスは1920年、カリフォ
ルニア州ロサンゼルスで愛知県蒲郡町出身(現在の蒲郡市)の両親、鈴木喜三
郎(1893-1929)と千代(1898-1980)の間に長男として生まれている。父、
喜三郎は1915年頃にパスポートを所持しない不法移民としてサンフランシス
コ沖に入港した。喜三郎が生前ルイスに聞かせたことだが、一攫千金を夢見
てパスポート無しでアメリカ行きの神戸の商船に乗り込み、船がサンフラン
シスコ沖に差し掛かると船から飛び込み海岸まで泳ぎ渡ったという4。母、千
代は1918年に喜三郎が日本に一時帰国した際に日本で結婚し、その直後に渡
米して喜三郎とロサンゼルスの日本人コミュニティの中心地であった「リト
ル東京」の近辺でクリーニング・ビジネスを始めた。ルイスの両親には住む
家がなく家族はクリーニング屋の事務所で生活をしていたことから、ルイス
は店内の蒸気圧縮機の下で生まれた。
ルイスの兄弟姉妹の構成は以下の通りである。
・長女 Florence(日本名:寿子、1919年生まれ)
・長男 Lewis(日本名:巌、1920年生まれ)
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・次男 Richard(日本名:幸雄、1923年生まれ)
・三男 Henry(日本名:勉、1924年生まれ)
・次女 Alice(日本名:芙美子、1927年生まれ)
・三女 喜美子(1929年生まれ)
(*喜美子は父、喜三郎が1929年にアメリカで亡くなり家族が日本に帰国し
てから出生したため、兄弟の中で一人だけアメリカ国籍を所持しなかった。)
ルイスの家族
アメリカ、カリフォルニア州にて(1927年頃)
母、千代 父、喜三郎
子ども(左から)アリス、フローレンス、ルイス、リチャード
ルイスの家族がアメリカで生活をしていた1910年、20年代初期のアメリカ
は、排日感情が社会全体に実に深く浸透していた。その例として、1907年9
月11日付けの『ニューヨーク・タイムズ』紙の日曜版に、日本人移民の写真
が紙面の上半分に大きく掲載され(ホノルルに到着した労働者、ホノルルか
らアメリカ本土に向かう浴衣姿の日本人女性、カリフォルニアの農民の写
真等)、この記事の見出しは「日本、白人世界へ侵略」(“Japan’s Invasion of
the White Man’s World”)であり、ニューヨークの新聞にこのような記事が
掲載されたことは、全米において日本人に対する排斥運動が支持されていた
ことを示していた5。また、「日米紳士協定――“Gentleman’s Agreement”」、
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「外国人土地法――“Alien Land Act”」、「排日移民法――“The Japanese
Exclusiong Act”」6 などの差別的な法律が次々に施行されたことは、当時の
アメリカ社会における過酷な排日風潮の表れそのものであった。
とりわけ、ルイスの家族が住んでいたカリフォルニア州は、「排日運動の源
泉」と呼ばれるほど、日系人に対して政治的、経済的、そして社会的に最も
圧迫を与えていた地域であった7。その理由として、西海岸に増加し始めた日
本人人口が挙げられる。当時の日系人は、低賃金であっても積極的に苦力労
働に従事し、特に農業における日本人の貢献は著しく、アメリカ社会は日本
人移民があらゆる職を奪ってしまうのではないかと怖れるようになった。カ
リフォルニア州における日系人数は他州に比べて圧倒的に多かったことを、
以下の表の数値が明らかに示している。
表1-1 初期のアメリカ地域別日系人人口
(1880-1930年)
(単位:人)
地理上の区分 1880年 1890年 1900年 1910年 1920年 1930年
ニューイングランド諸州 14 45 89 272 347 352
中部大西洋沿岸諸州 27 202 446 1,643 3,226 3,662
東北中部諸州 7 101 126 482 927 1,022
西北中部諸州 1 16 223 1,000 1,215 1,003
南部大西洋沿岸諸州 5 55 29 156 360 393
東南中部諸州 - 19 7 26 35 46
西南中部諸州 - 42 30 428 578 687
山中部諸州 5 27 5,107 10,447 10,792 11,418
太平洋沿岸諸州 89 1,532 18,269 57,703 93,490 120,251
米国本土合計 148 2,039 24,326 72,157 110,970 138,834
出所:『1930年合衆国国勢調査報告』
(飯野2000:18頁より転載)
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表1-2 太平洋沿岸諸州における日系人人口の内訳
(1900-1930年)
(単位:人)
太平洋沿岸諸州名 1900年 1910年 1920年 1930年
ワシントン州 5,617 12,929 17,387 17,837
オレゴン州 2,501 3,418 4,151 4,958
カリフォルニア州 10,151 41,356 71,952 97,456
太平洋沿岸諸州日系人総数 18,269 57,703 93,490 120,251
出所:『1933年合衆国国勢調査報告』
(Strong, Jr. Edward K. 1933:218頁より転載)
日本人に対する排斥の要因は日本人労働市場の圧迫だけではなく、移民社
会に蔓延する風紀の乱れ、また日露戦争の勝利に起因した「黄渦論」(イエ
ロー・ペリル)の台頭、そしてマスコミが排日キャンペーンを展開させたこ
とも排日運動を激化させる要因となった。「黄渦論」とは、19世紀半ばから20
世紀前半にかけてアメリカ、カナダ、ドイツ、オーストラリアなどの白人国
家において出現した黄色人種を蔑視する考え方であり、当時は主に中国人と
日本人が対象とされていたが、日本が日露戦争で勝利すると欧米諸国は日本
を欧米列強に匹敵する国力を持つ国家に発展したと考え、その警戒心と恐怖
感は日本人に集中するようになった。
喜三郎は何度か日本とアメリカを往復し、1925年に日本に向かう船上でア
メリカの「ライスキング」として知られる国府田敬三郎(1882-1964)と出
会い、日本で所有していた土地のいくつかを売り払いその資金で国府田とカ
リフォルニア州中部に位置するドス・パロス(Dos Paros)で米作の共同事
業を始めることになった8。1913年に施行された外国人土地法によって日本
人の土地所有が禁止され、借地権も制限されていたにもかかわらず、実際は
日系人の間で農地の所有や賃借が頻繁に起こり9、その方法として土地の名
義をアメリカ生まれの子どものものにしたり、あるいは株の60%をアメリカ
国籍の子どもの所有とする会社を作ったり、その会社が土地を所有するとい
うものであった。喜三郎も長男ルイスの名義を用いて土地を購入し、国府田
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との米の共同事業を行っていたと思われる。その後ルイスの家族は次第に経
済的に潤されるようになり、ルイスは小学3年生になるまでこの地で生活を
送った。しかし、1929年に喜三郎が急性虫垂炎を拗らし手当てが遅れ急死す
ると、ルイスの家族は国府田との共同事業の権利を失い、生活の術を失った
母、千代は5人の子どもを連れて生まれ故郷、愛知県蒲郡町に戻って生活する
ことを決意し帰国していった。日本に帰国後、千代は三女となる喜美子を出
産した。そして、亡き夫喜三郎の実家で姑と6人の子どもと新たな生活を始
めたが、姑の嫌がらせと夫の死の原因は自分にあると攻め続けたことが原因
で、生涯うつ病で苦しんだ。
日本での生活が始まった時、ルイスは9歳であった。ルイスは日本の小学2
年生(蒲郡町立蒲郡南部小学校に入学、現在の蒲郡市立蒲郡南部小学校)に
該当する児童であったが日本語がほとんど話せなかったため、千代はルイス
とその姉、フローレンスに日本語習得の目的で家庭教師を付け、2人とも1つ
下の学年で勉強することになった。ルイスは小学4年生になるまで「階段」を
「ダンダン」としか発音できなかったが、高学年の5、6年になると日本語も上
達し級長を務めるようになりクラスメイトの間でリーダー的存在になった。
そして豊橋中学校(旧制中学、現在の愛知県立時習館高等学校)に入学して
からも三度級長を務めた。
ルイスが芸術に惹かれるようになったのは、日本の学校に通うようになっ
てからであった。ほとんど毎週、学内外において絵画コンテストが開催され、
ルイスはそれらのほとんどに参加し、何度も受賞するほどルイスの作品は高
く評価されるものであった。
2.反戦思想の芽生え
ルイスの少年期にあたる1930年代というと、日本は中国大陸に進出しさら
なる軍事力を振い始めた時期である。1931年9月18日、中国柳条湖で満鉄の線
路を爆破するいわゆる満州事変が勃発した。その後も日本軍による中国に対
する破壊行為は続き、翌年1932年1月2日に錦州占領、対日ボイコット運動が
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起きた上海も攻撃し占領した。そして、1932年3月に日本が満州国を樹立する
と、日本は正式に国際連盟を脱退し、翌年1934年にはワシントン海軍軍縮条
約の破棄を決定し、日本は国際関係の中で孤立の道を歩むようになった。そ
れからも中国における日本の侵略行為はますます拡大、悪化していき、1937
年7月に蘆溝橋事件が勃発し中国との戦争が激化するにつれ、アメリカの世
論はそれまで以上に反日・排日風潮に傾くようになった。その結果、アメリ
カ政府は日本に経済上の制裁を加え、民間においては日本製品に対するボイ
コットを行うなど反感が露わにされ、日本への石油や屑鉄の輸出禁止といっ
た経済制裁を主張する市民運動も起こり始めた。さらに在米日系人の所有す
る耕地が襲撃されたり、日系人住宅付近に爆弾が投じられたりといった暴動
も生じている10。そして1940年にヨーロッパにおいてナチス・ドイツが勝利
を収めると、日本ではドイツと同盟を結びアメリカを牽制しながら大東亜共
栄圏を実現しようとする動きが強まり、同年、当時の近衛内閣は日独伊同盟
を締結して南方進出を目指した。同時に、悪化しつつあったアメリカとの関
係を調整しようと試みたが、この同盟締結は逆にアメリカの対日感情を悪化
させることとなった。
ルイスに反戦思想が芽生え始めたのは、高等学校時代(旧制中学校、以下
高等学校と省略)の経験から始まったと思われる。以下は、ルイスの口述記
録から読み取れる高等学校で実施されていた軍事訓練の様子と軍国主義に染
まった教員の姿の描写である。
私が高等学校に通っていた頃、日本は満州に、そしてその後1937年には中国に侵略
していました。日本軍の第18歩兵師団が私の通っていた高校のすぐ横にあったので、
私たちは軍事訓練をよく一緒にしたものでした。とても軍国主義的でした。高等学校
を卒業する者は、権力を持つ将校になれるのです。当時の高等学校は将校の候補にな
るためのトレーニングのような場所でした。全ての高等学校はこのように軍事的訓練
の場所でした。陸軍将校はまず私たちに軍隊行進、そして武器の構え方を教えました。
そして小さな人間の模型を与えられ、「やぁ! やぁ!」と叫びながらそれを校庭の隅
まで突き刺す訓練もしました。とても徹底されていました。ある時、私たちは1人の兵
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隊が戦車にひきつぶされたのを目撃しました。しかし、新聞で取り上げられませんで
した。おそらくその兵隊は不自由な足でふらふらしていたのだと思います。日本は中
国と戦争をしていました。アメリカとの戦争ではありません。当時はまだテレビは普
及されていませんでしたが、毎日流れるニュースやラジオは中国に関することばかり
でした。耳にするのは「日本がこの町を征服した! 万歳、万歳!」ということだけ
です。毎日、日本の貧しい農民たちは戦争のために徴兵され、新兵として駆り出され
ていました。それは当時の市民全員に課された日常の出来事でした。
高校に1人の沖縄出身のファシズム風国家主義者の男が歴史を教えていました。そ
の男はこのようにして(ルイス、手を机に叩きつけて、音をたてる)「お前たちは皆日
本人だ。よって、今から大和魂について語ろうではないか。」と言ってよくクラスを止
めることがありました。クラスメイトたちは私の方をこのようにして(ルイス、クラ
スメイトが自分に指をさしている真似をする)見ました。私がアメリカ生まれである
ことを知っていたからです。そんな時は、私は他の皆と何かが違うのだなと感じまし
た。しかし、それ以外に関して誰も私がアメリカ生まれであることを知りませんでし
た。それでもその先生は私に嫌がらせをしました。彼は一度私に、「巌、出て行け。お
前は日本人ではない。お前は日本人として相応しいものを備えていないから私のクラ
スに来てはならない。出て行け。」と言いました。このようなことはよくありました。
しかし、一方で私は良いリーダーでした。軍事的なことに関して、他の学生は私を頼
りにしました。何か命令を下す時、私は他の誰よりも大声で叫ぶことができました。こ
のことは、私がアメリカ陸軍情報部語学学校に入隊した時にとても役に立ちました。
ルイスがここで語る陸軍情報部語学学校(“Military Intelligence Language
School”)とは後に述べるアメリカ陸軍情報部語学学校であり、ルイスが太
平洋戦争時にアメリカ軍の一員として所属していた機関を指す。ルイスの学
校にはアメリカ国籍を持つ者は誰もいなかったが、ルイスのようにアメリカ
生まれの日系アメリカ人二世の多くが太平洋戦争前に来日し、その数はおよ
そ5万前後、また戦時中には1万数千人が日本に留まっていたと推定されてい
る11。ルイスは高等学校で「大和魂」を持つことが許される生粋の日本人で
はなかったため幾度か担当教員から残酷な扱いを強いられた。
豊橋中学校を卒業すると、ルイスは美術教員を目指し師範学校に入学する
ある日系アメリカ人帰米二世画家の口述生活史■
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ため母の妹が住む東京に下宿しながら川端学院と呼ばれる予備校に通い、そ
こで初めて本格的にデッサンの勉強を始めた。そしてある日、ルイスは叔父
と叔母のある会話を偶然に立ち聞きすることになる。その内容とは、「もし
この先、巌(ルイス)が師範学校で勉強し続けるなら、資金不足で巌の2人
の弟たちは高校に通えなくなるかもしれない。」というものであった。ルイ
スはその時、家庭の厳しい現実を真の当りにし、しばらく思い悩むが、その
後あるアイデアを思い至る。それは、「自分はアメリカ国籍を所持するアメ
リカ市民であるためアメリカに戻ることは可能であり、そこで美術学校に通
いながら同時に仕事に従事することも可能である」ということであった。そ
れは、当時の在米日系人コミュニティに存在していた通称「スクール・ボー
イ」という生活手段であり、アメリカ人家庭に住み込みながらその代わりに
家事手伝いをして安い賃金をもらい、同時に英語やアメリカの生活習慣を学
ぶという、とりわけ1900年代初期の日本人一世がアメリカで生活する際に選
択した滞在方法であった12。
それから間もなくして、ルイスは普段通り学校に通うために電車に乗って
いると、その中で偶然ある日系人と出会うこととなる。そして、その出会い
はその後のルイスの人生の選択に大きな影響を与えることとなった。
東京で生活を始めて2、3ヶ月たった1939年の5月のある日、私は日本語で書かれてい
た『アメリカの大学、短期大学ディレクトリー』という住所録を持っていました。叔母
の家に帰る途中、私はたまたま電車の中でそれを読んでいました。ちょうど隣に座っ
ていた男の人が私に「アー・ユー・ニセイ?(あなたは二世ですか?)」と聞いてきま
した。アメリカとはしばらく関わりを持っていなかったので、その「アー・ユー・ニ
セイ?」の意味がその時よくわかりませんでした。その人が「どうしてそれを読んで
いるのですか?」と私に聞くので、私は「美術を勉強するためにアメリカに戻ろうか
と考えていたからです。」と答えました。その人は「なるほど。私はちょうどアメリカ
から来日したところです。あなたはどこの駅で降りますか?」と聞き、私が「明大前
です。」と答えると、「私はその駅の一つ向こうの代田橋で降りるので、もしよかった
ら私に会いにいらっしゃい。」という言葉を残して私に名刺を渡し電車を降りていきま
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した。その日の夕食後、私は叔母の自転車を借りてその男に会いに行きました。その
時、私はその男が反ファシズムの思想を持つ人物であることを知りました。その男は
私に「あなたを信頼しましょう。」と言って、南京大虐殺の写真を私に見せました。そ
のような写真を持つことでさえ当時は禁止されていましたが、その男は私にこう言い
ました。「もしこのまま日本に滞在し続けるなら、君が望まなくても今の日本軍たちと
同じことをしなければいけない。そうしないと、日本軍は君の首を切り落とす。もし
アメリカに戻るチャンスがあるなら日本から去りなさい。この先、2、3年後には大学
生、そして師範学生たちのための兵役猶予はなくなるからです。」と言いました。「私
の家族は私をアメリカに送れるほど裕福ではありません。」と私が答えると、男は「そ
れではこうしてみよう。どのくらい親族はいますか?」と私に尋ね、私には20ほどの
親族がいることを伝えると、「君と君のお母さんは全ての親族に手紙を書いて、アメリ
カに渡るための資金が必要であることを頼みなさい。必ず十分な資金、もしくはそれ
以上が集められるはずです。そうしたら君はアメリカに戻ることができる。」と話しま
した。その男が誰だったのか以前は覚えていましたがもう忘れてしまいました。よく
覚えていませんが、その男は私に何か小さなものを見せて、「これをロサンゼルスにい
る私の友人の所に持っていきなさい。」と言ってそれを私に渡しました。
多くのことが私を反ファシズムにさせました。私の姉と結婚した従兄弟は1938年、
1939年と美術学校に通っていました。その従兄弟は徴兵検査を避けるために、毎日酢を
飲み続けました。そうすることで、彼は潰瘍を患い兵役忌避できると思ったからです。
当時の日本政府は激化する太平洋戦争における兵力の極度な消耗を補うた
め、それまで兵役猶予を与えていた大学生と師範学生に対して、1943年10月21
日、「国家存命のとき、学生もペンを捨てて入隊せよ」とのスローガンを掲げ
学徒出陣令を下した。それまでは、在学中の学生に対し満26歳になるまで徴
兵を延長する措置を取っていたが、この法令の制定により徴兵年齢が満19歳
に下げられ、多数の在学生たちが入隊していくこととなった。学業半ばで出
征した学徒数は、1943年時において約13万人と推定されている13。また、日本
政府はファシズム構築に向けて国民の思想をより徹底的に統制するため、そ
れまでの治安維持法を全面的に改正し、体制に服従しない者、つまり戦争に協
力しない「非国民」に対して実に過酷な社会的迫害を加えるようになった14。
ある日系アメリカ人帰米二世画家の口述生活史■
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ルイスがこの人物と出会ったのは1939年であるため、ルイスはちょうど徴
兵年齢を迎えた19歳であった。したがってこの年は、生まれ故郷であるアメ
リカに戻りスクール・ボーイとして新たな生活を始めるか、あるいはそのま
ま徴兵命令に従いこの男が語るように残虐な人間と化される道に進むのか、
ルイスとって実に重大な人生選択を迫らせた時期であった。高等学校時代か
ら日本の軍国主義体制に強い嫌悪感を抱いていたルイスは、この人物との出
会いにより帰米を固く決心することとなる。そして、この人物との会話とそ
の関係について、当時のルイスは自分の親族の誰にも話すことはなかった。
3.日本軍国主義に抗して帰米(1939年)
帰米を決心したルイスは、母、千代にその旨を語った。千代はルイスの意
思を拒まなかったものの、その意向を単純に受け入れたわけでもなかった。
なにより千代自身がアメリカ生活の経験者であり、当時も存在したアメリカ
社会における日系人差別を懸念していたこと、また当時の移民社会で生活上
必須要項として考えられていた親族の存在がルイスにはいなかったからであ
る。そのような悪条件にもかかわらず、千代は子どもの教育に大変熱心で
あったため、美術を学びたいと望むルイスの意志を尊重した。ルイスの一つ
年上の姉、フローレンスもまた、日本の小学校を卒業してから神戸にあるパ
ルモア女子英学院高等部英語科(現在の啓明女学院)に入学し、下宿生活を
送りながら勉学に励んでいる15。
それから数ヶ月後、千代、ルイスの兄弟姉妹、そして多くの親族に見送ら
れ、ルイスは横浜湾から出航する龍田丸にて10年ぶりにアメリカに渡って行
くこととなった。ルイスが次に日本の土地を踏むのは、太平洋戦争後の1949
年、帰米して10年を経てからのことである。以下はルイスがアメリカに渡っ
て行く時の様子である。
私が1939年にアメリカに戻る時に母は私にこう言いました。「もし何か緊急状態が
起こりトラブルに巻き込まれるようなことがあったら、国府田さんを訪ねなさい。国
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府田さんがあなたを助けてくれるでしょう。しかし、もし彼があなたを拒むのなら、
自立して彼を頼るのをやめなさい。」私は実際に国府田さんに会いに行くことはありま
せんでした。国府田さんは戦後間もなく日本を訪れ、そこで母と面会しています。国
府田さんは私がアメリカに滞在していることを知っていましたが、決して私を訪ねる
ことはありませんでした。ですから私も国府田さんとコンタクトを取ることはありま
せんでした。今思えば取るべきだったのかもしれません(笑)。
1939年にアメリカに戻ってきた時、私は日本の電車の中で出会った人物から受け
取った物をロサンゼルスにいる彼の友人のところに持っていきました。そこで彼らが
エド・ミタの仲間たちであることを知りました。エド・ミタは元共産主義者であり、ま
たそれを公に断言していた男でした。彼は共産党のメンバーで、共産党の活動家とし
てロシアに渡航したくても貧しくてそうできない者たちのために資金援助などして貧
しい人々を助けたりしていました。ロシアがフィンランドに侵略した時、彼は「これ
は私が信じていたことではない。」と堂々と世間に語り、共産党を去っていきました。
彼こそ、私がロサンゼルスに着いた時に私を支えてくれた恩人です。彼は私に「叔父
を頼りにするな。自立したらいい。」とアドバイスをくれました。そして私をスクー
ル・ボーイにしてくれました。スクール・ボーイとは、アメリカ人の家庭の中に住み
込みで生活をしながら朝食前に一仕事をして、その後学校に通いそして下宿先に帰っ
てくるという日課で生計を立てる者のことです。6ヶ月程経った後、彼は「ルイス、私
の休みは日曜だけだ。」と言って、彼の家の庭で庭仕事をするように私に頼み、私は1
日中その庭で過ごしたものでした。
横浜湾、龍田丸にて(1939年)
ルイス(中央)、千代(ルイスの左後ろ)
姉・フローレンス(ルイスの後ろ)とその他親族
ある日系アメリカ人帰米二世画家の口述生活史■
407
カリフォルニア州ロサンゼルスに渡った身寄りのないルイスの世話をした
のはエド・ミタ(三田平八)という名の日系一世作家と知られ、戦後はアジア
系俳優として注目を浴びる活躍をした人物である16。ルイスの口述の中にあ
るエドのロシアに対する憤慨と落胆の想いは、1939年11月30日にフィンラン
ドとソ連の間に勃発した戦争が関連していると思われる。当時、ソ連はフィ
ンランド侵攻の理由を「フィンランドの独裁者マンネルハイム将軍はファシ
ストであり、ヒトラーと組んでいつ攻撃してくるかわからない」という危機
感があったためとし、ソ連を支持してきた者たちはソ連はどのようなことが
起きたとしても他国を侵略しない平和的立場に立つ国と信じていたため、大
国ソ連が小国フィンランドに戦争をしかけたことは彼らにとって納得いくこ
とではなかったからである17。
ルイスは、エドの支えによってスクール・ボーイとなり、アメリカ人家庭
に住み込みながらいよいよ念願の美術学校、オーティス美術学院(Otis Art
Institute)に入学することとなった。ルイスのスクール・ボーイとしての給
料は1週間に僅か2ドルであり、バスで学校に通うために1週間に2ドルかかっ
たため十分な資金は貯まらなかったものの、下宿先ではキッチンで料理をす
ることができ常に腹ごしらえができた。そして車庫の屋根裏部屋にあった自
分の部屋では、時間が許す限り絵の制作に費やした。10ワット、20ワットの
電球が使われていたその部屋は常に薄暗く、視力が低下したルイスはこの頃
からメガネをかけ始めるようになった。
オーティス美術学院に約1年通い、ルイスの美術に対する情熱はますます
強いものとなった。そこで、スクール・ボーイ以外にも収入源が必要だと考
えるようになったルイスは、1941年5月、当時多くの帰米たちが従事していた
アラスカにある缶詰工場の労働に就く準備を始めた。そのアラスカ鮭缶詰工
場の歴史は1871年に遡る18。ルイスのようにカリフォルニア州からアラスカ
に移動しようとした日系人たちの多くは就学適齢期の青年たちであり、彼ら
の多くは、「もしギャンブルに走らないで缶詰工場で働き続けるなら、学校に
戻るための十分な資金を稼ぐことができる」と信じ、将来的に就学を強く希
408
望している者が多くいたという。
アラスカ行きの準備を控えていたルイスだが、ある日オーティス美術学院
のクラスメイトであった一人の日本人留学生からワシントンD.C. にある日
本大使館で短期の仕事をしてみないかと突然の誘いを受けた。ニューヨーク
がすぐ側に位置するワシントンD.C. で生活することは、芸術家を目指すル
イスにとって実に魅力的であったことから、ルイスは3ヶ月間という短期の
労働条件であったが即座にその仕事を引き受けることにした。ワシントン
D.C. に渡ると、ルイスは日本大使館二階の台所に併設された小部屋で再び下
宿生活を始め、日中は働き、夜間は美術学校に通った。そして、この日本大
使館における短い労働経験が、ルイスの生涯の中心を成す反戦思想を確実な
ものとして発展させていくことになる。
私の中で反ファシズムの精神が芽生え始めたのは、この大使館で働いていたちょう
どこの時期だったと思います。初めて反ファシズム用語を耳にしたのはエド・ミタか
らでしたが、彼の影響というよりはこの時期の経験からです。
私はそこで事務員として雇われました。書類を読んでそれを正しい場所に整理した
り、また暗号解読部屋を入ったり出たりしていたにもかかわらず、彼ら日本人職員た
ちは私のことを少しも「怪しい人物」として見たり、また「少し気をつけた方がいい。」
などの扱いをしたことがありませんでした。彼らは私を日本人の1人として受け入れ
てくれました。しかし夜になり、私が美術学校に行かない時など、彼らがいつもひど
く酒を飲み、そしてギャンブルをしているのを目にしました。彼らは酒を飲むといつ
も決まって戦時中に実際に起こっていた出来事について語り始めました。ある日、同
僚全員で食事をしていた時、2歳と4歳になる2人の子どもと奥さんとアメリカに来てい
たミナミという男がいました。彼はワシントンD.C. の大使館に配属されました。ある
夜、ミナミは酒を飲み始め、彼が中国に滞在していた時に経験したことについて話し
始めました。彼は東京の大学を卒業した後、結婚して子どもが生まれ、中国の北京南
方郊外にある天津に送られました。そこに着くと、そこの将校はミナミに仕事場を案
内する前に、「お前がここの領事を務められるか、今からテストする。」と言って、そ
の男は彼に刀を渡し、門の外に行って1人の無実な中国人の家に乱入してその中国人を
連れてきて、「こいつの頭を切り落とせ。もしこれができないのならお前はここ中国で
ある日系アメリカ人帰米二世画家の口述生活史■
409
働く価値はない。」と言われた経験を語りました。私はこのようなことをいつも耳にし
ていました。すべては彼らが実際に経験し、実際にあった出来事でした。私は彼らの
会話の中に入りませんでした。ミナミは中国に7年間滞在した後にアメリカに転勤し
てきました。彼はおそらく大使よりも身分の高い人物であったに違いありません。家
族をここに連れてくるような人であるなら、ミナミは身分の高い人物だったと思いま
す。そしてもう一人のヤベという若者がいました。彼は酒が入ると同僚たちはいつも
「気をつけろ! 気をつけろ!」と口にしていました。ヤベが中国で経験したこと、特
に満州での経験を話す時は、「中国人を決して人間だと思ってはいけない。」と語りま
した。彼らは天皇のために刀を使い、そのために中国人の頭を切り落とすことをしま
した。これらのことは日本人の間でなされる普通の会話で、彼らは人目に触れない場
所でそのようなことをいつも語っていました。すべて本当にあったことです。私は嫌
悪感でいっぱいでした。私は決してそのような彼らの会話の中に入りませんでした。
真珠湾が攻撃されてから、私が日本に帰ることを拒んだ数日間の間に大使館から首に
なり、同僚たちから「犬」と呼ばれました。
12月7日の日曜日に日米戦争が始まった時、大使館の中には15人ほどの日系アメリカ
人、いや、アメリカ国籍をもつ日系人が働いていました。全員日本に戻ることに対し
て抵抗していました。ロサンゼルスにいたエド・ミタから、この戦争を進めているの
は天皇制であることを耳にしたこと、また戦時下の蒲郡で多くの人々が日本による満
州と中国の侵略戦争のために飢えていたことを思い出し、私も日本に戻ることを拒み
ました。また、12月に日本に帰国することを拒んだ理由に、大使館で働く同僚たちの
存在も関係していました。それから大晦日になって大使館に誰もいなくなるまで私は
そこに滞在しました。誰が私を大使館から出してくれたか覚えていませんが、今思え
ば FBI だったかもしれません。
4.日米戦争下に置かれて(1942-1945年)
1941年12月7日に真珠湾攻撃によって日米戦争が勃発すると日本とアメリ
カは本格的な戦争状態となり、連邦捜査局 FBI(以下、FBI と省略)は在米
日系人社会の指導者、とりわけ日本人社会の中で指導的立場にあった日本人
会の会長、仏教界の僧侶、日本語学校の教師等を連行し取り調べを行った。
連行された日系人の数は、アメリカ本土とハワイで合計2,300人と推測されて
いる19。アメリカ国家にとって危険性がないと判定された者は後に解放され
410
たが、その中には連行されたまま特定の収容所に送られた者もいた。ルイス
もワシントンD.C. の日本大使館職員であったことから、FBIに連行されたが
後に釈放されている。そして1942年1月29日、連邦法務長官令により、太平洋
沿岸一帯が保安地域に指定され、全ての「敵国人」はこの地域からの移動を
命じられ、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトは2月19日、西海岸に住
む日系人を「一時転居」させる政令にサインし(大統領令9066号)、これによ
り西海岸地帯に在住していた約12万人の日系人が、アメリカ奥地の10か所に
常設された強制収容所に送られた。
ルイスは東海岸のワシントンD.C. で生活していたため強制収容所送りは
免れた。開戦時のニューヨークには約1,100人の日本人一世、約650人の日系
アメリカ人二世が滞在していたと推定されている20。そしてFBIから釈放さ
れた後、ルイスは友人を頼りにニューヨークに移動し、皿洗いの仕事に従事
しながら日米民主委員会(Japanese American Committe for Democracy)と
呼ばれるデモクラシーを信奉する日系人団体に参加し始めるようになった。
この委員会は日米開戦直後の12月11日に結成され、決起集会には約150人が
集まり、日本の軍国主義体制を真っ向から非難しアメリカに忠誠を誓うア
ピールを行っている21。この委員会は日系アメリカ人二世を役員に据え、二
世主体、すなわち「アメリカ市民」の団体という体勢を取っていた。日米民
主委員会の方針をまとめると、①(日本人一世は)日系人の中にも反軍国主
義、デモクラシー擁護団体があることをアメリカ人に知らせること、②差別
法のため市民権こそないが、永久滞在者及び二世の親としての立場は、市民
と同様であることの認識から戦時公共事業に積極的に参加すること、③同時
に、日系人差別に対して断固として戦うこと、④さらに日本国内にもデモク
ラシー勢力があることをアメリカ人に知らせることでであった22。
日米民主委員会の存在をアメリカ人に知ってもらおうと、1942年4月15日、
ホテル・ディプロマートで第一回大会を開催し、参加者は日本人、アメリカ人
を合わせ300人を超え、開戦直後の日本人主催の会合としては予想外の多く
の人々が集まった。とりわけ、日系人以外の参加者がこの会合に来賓として
ある日系アメリカ人帰米二世画家の口述生活史■
411
参列したことは当時のアメリカ社会に注目され、彼らは作家のパール・バッ
ク(元フランス航空相)、アダム・C・パウエル(ニューヨークのハーレムを
地盤に選出された黒人下院議員)、劉良摸(中国基督青年会代表)等であり、
会合内で幹部たちは軍国主義打倒と民主的日本建設の必要性を説き、民主的
日系人の立場の擁護に熱弁を振った。また、あのアルバート・アインシュタ
インもこの大会で日米民主委員会の顧問になっている。日米民主委員会は教
育委員会と協力し、あるいは独自の立場で困窮日本人の救済活動を行ったり
もした。しかしその活動の中心は、全ての日本人は軍部の手先であるかのよ
うに見なしがちなアメリカ人の考えを変え、また日本人に対する差別を改め
させる政治・教育活動にあった。
ルイスはコロンビア大学の近くに位置した日系人仏教会、美以教会に併設
された寄宿舎で生活し、隣部屋には当時ニューヨークで活躍していたトオ
ル・カナザワという日系アメリカ人二世ジャーナリストが住んでいたため親
しい間柄となった。この寄宿舎は20人ほどの収容能力があり、仏教徒ではな
くても学生や労働者等、誰でも入居することができ、家賃は週4ドルほどで
あったという。
そして1943年6月、ルイスは陸軍情報部語学学校(Mi l i t a r y I nt e l l i ge nc e
Service Language School; MISLS)に自ら入隊を決心する。陸軍情報部語学
学校とは、1941年11月にアメリカ陸軍省が日米開戦に備えてサンフランシ
スコの金門橋の側に位置するプレシデオに設立した語学学校である。その
施設の目的は、敵軍の言語である日本語を日系アメリカ人二世に習得させ
ることにより、日本軍による暗号解読やその他情報収集をアメリカ側に提供
し、日本との戦争においてアメリカ側にこの戦争を有利に進展させることで
あった。戦時中に陸軍情報語学学校に入隊した日系人の総数は5,500人を超え
る23。帰米二世ならではの高い日本語能力が評価されたルイスは、1945年5月
まで日本語教員として日系アメリカ人たちに日本語を教えることとなった。
ルイスのように、語学を武器として参戦した兵士たちは「MIS 語学兵」と呼
ばれ、彼らの配属先は太平洋戦線であったサイパン、グアム、オーストラリ
412
ア、そしてビルマ、インド、フィリピン等であった。
ルイスは、戦時中の経験について多くを語らなかった。
5.戦後におけるルイスの活動
終戦を迎えた1945年、ルイスはニューヨークに残りながら再び美術学校
に通っていた。その学校は、優秀なアーティストを輩出する当時アメリカ
美術界から注目されていたアート・スチューデント・リーグ(Art Student
League)であり、そこには岡山出身の日系人一世画家、国吉康雄(1889-
1953)が唯一非白人教員として教鞭を執っていた24。
いずれにしてもニューヨークに戻ったら、当然のことながら美術学校に通いました。
学校はアート・スチューデント・リーグといい、日本を出身とする国吉がいました。彼
はその学校で教えていましたが、私は彼を頼りにしたことはありませんでした。
アート・スチューデント・リーグに通った最後の一年を振り返ってみると、私は何
も絵の製作をしませんでした。美術学校で抵抗運動をしたり、気付いてみると外に出
てあれこれしながら走り回ったり、「アート・スチューデント・リーグで黒人教師を
雇うべきだ!」というスローガンを掲げてデモ行進に参加したりしていました。アー
ト・スチューデント・リーグの何人かの学生は、南部の芸術家で最近シアトルで亡く
なったチャーリー・ホワイトという黒人教師を雇うように要求していました。その他3
人の黒人教師がいて、もし彼らが雇われるのであればアート・スチューデント・リー
グで教えられることになっていました。ですから学生たちはデモ行進をして訴えてい
ました。私は彼らに同意しました。国吉はそこでは30人、40人ほどいる教師たちの中
で唯一の非白人の教師でした。ですから、アート・スチューデント・リーグに何人か
の黒人教師を雇うようにと私は国吉とデモ行進に参加しました。
戦後直後のルイスはほとんど作品制作をすることはなく、時間のある限り
当時のアメリカ社会で目にする不正に対する抵抗運動に精を出していた。そ
れはもはや日系人に対してだけではなく、同様に不当な扱いを受けていたマ
イノリティに対する尊厳を守るための運動でもあった。
アート・スチューデント・リーグで教鞭を執っていた国吉は、1906年に17
ある日系アメリカ人帰米二世画家の口述生活史■
413
歳にして単独でアメリカに渡り、美術に目覚めて1916年に同リーグで絵画を
学び、1948年にホイットニー美術館で現存作家としては最初の回顧展を可能
としたアメリカ美術界の中で実に高く評価された日系一世画家である。国吉
も戦前は東海岸に在住していたため、日系人に課された強制収容所入りは免
れたものの日系人一世であったことから敵国人としての苦境は変わらず、日
本向け短波放送で反戦を訴えたり、反日ポスターの製作を手掛けたりするな
ど、日本の軍国主義に抗して積極的に芸術活動を繰り広げていた。国吉もま
た、ルイスが戦中戦後と関わりを持つようになった日米民主委員会の中心的
人物であり、顧問として名を連ねたパール・バックやアルバート・アインシュ
タインらと共に反ファシズム構築に向けて活動をしていた。国吉は前述した
1942年4月に行われた日米民主委員会の第一回大会スピーチで、「争点は明ら
かである。デモクラシー対全体主義、あるいは自由対隷属。地球上の人々が、
同一の信念と希望を、同一の暴虐行為と抑圧から守りぬく。世界は初めて一
つになった。」と、反ファシズム、デモクラシー擁護の精神を熱く語ってい
る25。
ルイスはこの頃から、とりわけ黒人画家と親しい交友関係を持つように
なった。そして戦後4年が経た1949年、ルイスは10年ぶりに日本に一時帰国
し、以下はその際にルイスが目にした日本、そして郷里、愛知県蒲郡町の様
子である。
1949年、私は名古屋の近くにある私の実家、蒲郡に帰りました。それから8月にな
り、原爆投下記念日に広島に行くことを決意しました。原爆投下から3年後の平和記
念日に一人で参加しました。日本に帰国した一番の理由は家族との再会でした。パス
ポートもあり、3つの美術学校に入学するための申請書の準備もできていました。1つ
はメキシコにある工芸美術作業場で、他の2つの学校はパリにありました。私はパリに
行く予定でいました。
日本の状況はとても悲惨でひどいものでした。実際のところ、1949年は電車に乗る
と、どの電車も窓がついていないか割れたままのガラスで走行しているのを目にしま
した。東京では半分のブロックでさえ歩けないほどの状態でした。私の服装や靴など
414
を見て子どもたちは私がアメリカ人であることを一目で知ったのでしょう。貧しい子
どもたちがどこからでも寄ってきました。一度、神田に何冊か本を探すためにある書
店に入った時のことを覚えています。その店に入ると直ぐに、小さな子どもが私を見
て「アメリカ人来た! アメリカ人来た!」と叫びました。私のつたない日本語からわ
かったのでしょう。彼らはアメリカ人に食料などをたかることを嫌っていましたが、
貧しかったのでしかたがありませんでした。また闇市はどこにでもありました。電車
に乗ると、闇屋たちはちょうど電車が駅に着く手前で米を投げ飛ばし、それを誰かが
受け取るというように、どこにでも闇市を目にしました。私が広島に行こうとしてい
た時、母は現金の代わりに私にうどんと米の包みを渡しました。「これを持って行きな
さい。どこに行くにしても現金より食料のほうが貴重だから。」と母は言いました。当
時、人々はまだ飢えていました。1949年の東京はまだ戦後における日本の再建の始ま
りでもなく、再建されている場所を目にすることはありませんでした。
ルイスは原爆記念日にあたる8月6日に広島を訪問し、そこで目にした記念
碑に銘刻されている反戦のフレーズをメモ書きし、後にそれをモチーフとし
て以下の反戦ポスターを作成している。
反戦ポスター
『ノー・モア・ヒロシマ』
“Repose Ye in peace,
for the Error shall never be repeated.”
「過ちは繰り返しません。安らかにお眠りく
ださい。」
By Lewis Suzuki
ある日系アメリカ人帰米二世画家の口述生活史■
415
ルイスの日本滞在中に、ニューヨーク州では「ピークスキル事件」と呼ば
れる黒人に対する暴動事件が生じていた。ルイスはこの事件の詳細をアメ
リカの友人から連絡を受けて知り、その時予定していた日本滞在の延長を取
り消し、この事件の真相を追及するためにアメリカに戻っていくこととなっ
た。これは、1949年8月24日、ニューヨーク州のピークスキルという山頂で、
黒人歌手、ポール・ロブソンがコンサートを行い、その地域に住む白人優越
主義を唱える者たちがその企画に反対デモを起こし、コンサート終了後、若
者の暴徒が観客席に乱入し、さらにコンサートグランドを踏み荒らして多く
の重軽傷者を出したという事件である。歌手のポールは、「アメリカのデモク
ラシーが何であるかを人々に示す必要がある」と語り、その3日後にあたる8
月27日に再度コンサートを開催するに至った26。ルイスは日本滞在中に、ア
メリカで交流を深めていたアフリカ系アメリカ人画家、チャーリー・ホワイ
トの画集を、日本で出会った何人かの画家に紹介している。ルイスがチャー
リーから受け取ったその画集には、世界平和を訴えるメッセージが記述され
ており日本の画家たちはそれに感銘を受け、ルイスがアメリカに帰国してか
らも日本人画家たちとの交流は続いたとルイスは語った。
また同年、ルイスの反戦運動の精神はニューヨークで開催予定であったあ
る展覧会を前に再び明らかになる。
私が関わりを持っていた藤田嗣治に関する問い合わせの電話がニューヨークと東京
からありました。藤田は戦前にフランスに渡った日本ではとても有名な画家でした。
また、藤田は日本軍を積極的に支援していた人物で、日本軍のために絵を書いた画家
でもありました。彼は中国に行き、日本軍のフィリピン侵略の様子などを描きました。
ある時、新聞で藤田嗣治の個展がニューヨークで開かれることを伝える記事が載り、
私はその企画に反対しました。少なくとも、企画者は藤田嗣治が戦争犯罪人であるこ
とを知るべきでした。ですから、私は日本に手紙を書き、藤田が戦時中に実際に行っ
ていたことを示す写真を探し出してもらい、それをニューヨークにいた他の芸術家に
見せました。その個展が開かれる当日でしたが、私たちはピケを張って、そのことが
新聞で取り上げられました。うっすらと覚えていることは、私は彼に関する資料を日
416
本人画家から取り寄せ、それをニューヨークの誰かに渡したと思います。
これは、1949年にニューヨークで予定されていた藤田嗣治(1886-1968)の
個展における出来事である。藤田は1913年にフランスに渡りモディリアーニ
やピカソの影響を受けて本格的な美術を学び、日本の陸軍報道部から戦争記
録画を描く依頼を受け、日中戦争が始まる1937年頃から本格的な戦争画を描
くようになった画家である。そして戦後、藤田は戦争協力者として厳しく非
難されたことからフランスに帰化し生涯日本に戻ることはなかった。実際、
藤田だけでなく1939年には戦争画家従軍派遣として約200人の画家が日本か
ら戦地に送られ、そのほとんどの画家が戦争記録画を描いていたにもかかわ
らず、批判は藤田一人に集中したと言われている27。ルイスは、日本の画家と
の情報交換を通して藤田の個展開催に抗議し、国吉もそのデモに参加した。
ルイスの芸術観
ルイスは壮年期を迎えた頃から再び作品制作を始めるようになった。以下
はルイスが語る芸術観である。
1949年に日本を訪れる前までは、画家としての私は、非具象的、つまり抽象的な絵
を描くことがほとんどでした。私はそれをとても楽しんでいました。お見せできる作
品はあまりありませんが、日本の画家たちとの交流において私が感じたことは、「芸術
は存在する理由があり、特に戦争と平和について人々に考えさせるためにある。」とい
うことです。ですから、私の絵に対する主題はより現実的になりました。しかし写真
のような写実的に描くという意味ではありません。私の絵を通して、人生の喜び、幸
せを表現したいといつも思っています。今でも抽象画を書くことはあります。それは
おそらく印象派絵画と呼べるかもしれません。風景画や花を描いたりしています。ま
たフィリピンの絵画もたくさん制作しました。人は私の描いたフィリピンでの作品を
見ることによって、そこに住むフィリピンの人々がどれほど貧しい生活をしているか
知ることができると思います。
現在私の家に、私が70歳を迎えた1990年に完成させた『スモーキー・マウンテン』の
ある日系アメリカ人帰米二世画家の口述生活史■
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作品があります。これまで私はたくさんの花や風景画、そして海の風景などを描いて
きましたが、一から自分が何をしたいのかを考え直しました。そこで「フィリピンで
見たこと、そしてたくさんの人々が住んでいるゴミ捨て場を絵にしよう。」と思いまし
た。この作品は、私自身も敬意を込めて眺める作品の一つです。その作品のコピーもあ
ります。スモーキー・マウンテンに住む人たちはゴミ捨て場そのものでした。私がそ
こを訪れたのはマルコス政権の時期で、そこには約1,000の家族が住んでいました。彼
らはいつもゴミをあさり、そこのゴミ捨て場にたどり着くまでに町の中を何度も歩き
回り、1,000人もの人々は単なる針金や金属類を探し回っていました。彼らはとても貧
しい生活をしていました。ある時、人間の死体を見ましたが、彼らはその死体を葬る
ための資金もありませんでした。「ただの小さなかけらのためにゴミをあさらなけれ
ばいけないとは、これは一体何という生き方か。」という問いかけが私の心に残りまし
た。ですからその風景を描くことにしました。なぜだかわかりませんが、多くの人々
は私のこの絵を好んで鑑賞している気がします。
ルイスは多くの風景画を制作したが、1949年の日本滞在以後、その作風は
抽象的なものから社会的メッセージを含んだ具体的題材を扱う作品へと変化
した。とりわけ、日本の象徴と言える「鯉」を扱った作品を多く手掛けてお
り、筆者がルイスからの聞き取りを行った際のルイス宅のアトリエにはそれ
らの作品がいくつも額縁と一緒に掲げてあった。ルイスは鯉を題材として選
ぶ理由を、「日本で鯉は“生きる宝石”として知られており、長寿、幸福、そ
して平和の象徴であるため」と説明した。ルイスは絵を描く際に、書道用の筆
を使うためか、作品は日本的な雰囲気がどことなくかもし出されている。色
使いは西洋的なテクニックで、そして筆使いは日本的にと、二つの文化の要
素が融合されているように感じられる。また、多くの反戦ポスターにも力を
注いでいる。どの作品も象徴的であり、一つの代表作品は先述した“Repose
Ye in peace, for the Error shall never be repeated.”「過ちは繰り返しませ
ん。安らかにお眠りください。」と記されたフレーズが描かれているポスター
であり、ルイスは“Error”という単語をあえて大文字で表現することで、戦
争が犯す不正の重さを強調しているかのようである。その作品の背景には、
418
もう一つの日本の象徴でもある折鶴が描かれており、実に日本のエッセンス
を含む作品である。ルイスの作品は、サンフランシスコにあるデ・ヨン美術
館(De Yong Museum)、ニューヨークのアメリカ水彩画協会によって年に
一度行われる展覧会にて鑑賞することができる。
『スモーキー・マウンテン』
マニラ、フィリピンにて(1990年)
“They need dignity.”
「彼らに必要なものは尊厳である」
By Lewis Suzuki
むすび
ルイスは日本の軍国主義体制を嫌い徴兵制から逃れるため、美術の勉強を
目的に1939年に帰米するが、その2年後に太平洋戦争が勃発したことから結
局戦争からは逃れることはできなかった。帰米二世であったルイスは、日本
語が他の日系アメリカ人二世たちと比べとりわけ読み書きに関して堪能で
あったため、バイリンガルとしての能力を武器にアメリカ陸軍情報部語学学
校に自ら志願し、日本とアメリカとの戦いに参戦していく多くの日系アメリ
ある日系アメリカ人帰米二世画家の口述生活史■
419
カ人たちに日本語を教えることとなった。日本語を習得した日系アメリカ人
語学兵たちは、日米両語の通訳翻訳業務に従事したり、太平洋戦線では日本
兵捕虜尋問等で活躍したりした。また、アメリカ軍の中には日系アメリカ人
二世のみで構成された特別部隊、第442連隊が誕生し、「ヤンキーサムライ」
と呼ばれた彼らはドイツ、フランス、イタリアにおけるヨーロッパ戦線の激
戦地区で多大な犠牲者出しながらもアメリカに対する忠誠を証明しようと命
を張って戦闘し続け、日系人を敵視する当時のアメリカ市民の目を大きく開
かせることとなった。また、ルイスとは立場が逆で、戦争時に日本に滞在し
ていたことから日本軍として兵役に就かざるを得なかった多くの日系アメリ
カ人も存在しており、その歴史的事実は最近になりようやく明らかにされて
いる28。
ルイスの口述の記録からも検証できるように、ルイスは実際の聞き取りの
際に戦争時にまつわる自らの経験をあまり語っていない。そのため、戦時下
における実際のルイスの経験やその想いなど詳細の部分は筆者自身も把握し
ておらず、あえて質問として再度尋ねることもしなかった。しかしこれまで
のルイスの人生の語りを通して、ルイスの生涯の柱となった反戦思想がルイ
スの日本での少年期の経験、東京の電車で偶然出会うある日系人男性の存在
とその友人たちとのネットワーク、そして太平洋戦争の勃発前に勤めていた
ワシントン D. C. 日本大使館の日本人職員たちとの労働経験を得て確実なも
のとして発展していったことは明らかである。さらに、ルイスの画家として
の立場も彼の反戦思想の構築に大きく関係していると思われる。ルイスの生
きた戦時下、戦後におけるアメリカ社会において、国吉康雄を始めとする何
人もの日系人画家たちが反ファシズムをモチーフに作品制作を手掛けたり、
日米民主委員会などのデモクラシー擁護を目的とする協会に積極的に参加し
ながら、日系人だけではなくアメリカ社会の片隅に置かれたその他マイノリ
ティに対する様々な不正のために市民運動を展開していたからである。しか
し、これまでのルイスの人生における出来事、またその語りを慎重に検証す
ると、ルイスは日系アメリカ人二世として生涯の様々な過程、特に戦時下に
420
おいて心的葛藤や苦しみに直面することになったが、当時の徴兵制を余儀な
くされた多くの若者たちの境遇と比較してみると、ルイスは二つの国籍、二
つの国民性を備え持っていたことにより、自身が望んでいた自己実現を可能
にすることができたのではないだろうか。とりわけ、ルイスはアメリカと日
本での生活経験者である日系アメリカ人帰米二世であったことから、自身の
人生のモットーである反戦を主軸とし、戦争時における様々な選択肢の前で
自ら武器を所持して出兵することを拒否することができ、また戦後において
は芸術を通して反戦活動、公民権運動に携わることができたからである。
本稿で、オーラルヒストリーを用いたことには明らかな理由がある。それ
は、他の伝統的な歴史資料からは排除されることの多い人々から新しい情報
を得ることができ、またこのような証言は歴史を生き生きとしたものに変える
からである。個人の記憶を「歴史」に結びつけるオーラルヒストリーは、ロー
カルとグローバル、あるいは具体例と一般論の間のいわば対話的役割を果た
すものである。オーラルヒストリーは歴史叙述に「声を与える」ものであり、
歴史上、無名であるこのルイス・スズキの人生にスポットを当てることで人間
によって生きられた新たな歴史が浮かび上がったのではないかと考える。

1 中野卓著「ライフ・ヒストリーによる人間研究」『私の履歴書』日本経済新聞社、1985
年、23頁。有末賢著「生活史調査の意味論」『慶応義塾大学法学研究』第73巻5号、2000
年、1-27頁。松田素二著「人類学における個人、自己、人生」米山俊直編『現代人類
学を学ぶ人のために』世界思想社、1995年、186-204頁を参考にした。
2 桜井厚著『インタビューの社会学―ライフヒストリーの聞き方』せりか書房、2002年
62頁。
3 「帰米二世」とは、一般的には戦前、幼少時に教育等の目的で来日し、長期間滞在し開
戦前に帰米した二世を意味する場合が多い。門池啓史著「太平洋戦争と滞日日系二世
―二世教育機関に通った日系アメリカ人を事例として」(『トランスナショナル・アイデ
ンティティと多文化共生―グローバル時代の日系人』村井忠政編著、明石書店、2007
年)。195頁。
ある日系アメリカ人帰米二世画家の口述生活史■
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4 山崎朋子著『あめゆきさんの歌』文春文庫、1981年、96頁によると、当時日本からア
メリカへ渡った移民たちの中にはパスポートを所持しないものがかなり存在し、喜三
郎のように「飛び込み」と呼ばれる方法で密入国したものが多くいたことが述べられ
ている。
5 粂井輝子著『外国人をめぐる社会史―近代アメリカと日本人移民』雄山閣、1995年、
112-113頁。
6 1)日米紳士協定:1908年に制定された法律。アメリカにおける日本人移民排斥の動き
が日米国家間の問題に直結することを恐れた日本政府は渡米者に対するビザ発給を自
主的に制限し、以下の条件に該当する者だけ渡航許可を出した。①領事館発行の在留
証明書を持つ再渡航者、②在米在留者の父母、妻、未成年の子ども、③外務省の許可
を持つ定住農民。1908年1月における日本からの渡米者数413名が同年12月には142名
までに減った。粂井輝子著『外国人をめぐる社会史―近代アメリカと日本人移民』雄山
閣、1995年、119頁参照。2)外国人土地法(カリフォルニア州外国人土地法):1913年
に制定された法律。帰化不能外国人の土地所有、賃借、譲渡を制限する法、しかし日
本人の親がアメリカ生まれの子どもの名義で土地を購入することは取り締まれなかっ
た。翌年1920年には外国人土地法は改正され、帰化不可能外国人は借地もできなくな
り、また未成年の子どもの後見になって土地を購入することもできなくなった。この
「帰化不能外国人」とは日本人のみを公に指しているものではなく、法案のどこにも
“Japanese”の文字は見られない。とはいえ、中国人移民の数が減少し、日系移民の経
済的活躍が目立ち始めた当時、これが日本人を狙い撃ちしたものであることはだれの
目にも明らかであった。外国人土地法が別名「排日土地法」と呼ばれるのはこのため
である。粂井輝子著、前掲書、172頁参照。3)排日移民法:1924年に制定された帰化
不能外国人である日本人の入国禁止を定めた法律。アメリカ人の妻を持った新渡戸稲
造は、この法律が廃止されなければ二度とアメリカへ行かないと公言したほどであっ
た。西山千著『真珠湾と日系人』サイマル出版会、1991年、10-11頁。
7 吉田忠雄著『排日移民法の軌跡―21世紀の日米関係の原点』経済往来社、1988年、150
頁。
8 国府田敬三郎(1882-1964):福島県出身の日本人一世。日本では師範学校を経て郷里
で校長となる。教育視察の名目で1908年に渡米し、「ブランケットかつぎ」と呼ばれる
季節労働者、缶詰工場経営を経て米作を手がけた。カリフォルニア州中部に位置する
ドス・パロスに大農園を経営し、現在「国宝ローズ」として北米で有名なカリフォルニ
ア米を生み出した。エドワード・K・国府田著『国府田敬三郎伝』浜通新聞、1965年。
422
9 飯野正子著『もう一つの日米関係史―紛争と協調のなかの日系アメリカ人―』有斐閣、
2000年、54頁。
10 飯野正子著、前掲書、82-83頁。
11 1930年代、日系アメリカ人二世たちの渡日が急増した理由は以下のようにさまざまで
あった。①ドルと円との為替レートの差異により渡日しやすくなったこと、②宗教団
体の勧誘、③日本的教育への願望、④満州事変以降、日本は国際的に脚光を浴び始め、
在米日系人も日本に注目するようになったことが挙げられる。門池啓史著「太平洋戦
争と滞日日系二世―二世教育機関に通った日系アメリカ人を事例として」(村井忠政
編著『トランスナショナル・アイデンティティと多文化共生―グローバル時代の日系
人』、明石書店、176頁参照。)
12 1907年に紳士協定が締結される前がスクール・ボーイの数がピークに達した時期で、
1910年にその数は実質的にゼロになったと言われている。ルイスが1940年にスクー
ル・ボーイであったのなら、おそらくその名称とその職種は二世や日系人コミュニティ
の中で存在し続けたと思われる。B. Niiya, Encyclopedia of Japanese American History,
Updated Edition, The Japanese American National Museum, New York, 2001, p.362
13 蜷川壽惠著、『学徒出陣:戦争と青春』、1998年、4頁。
14 なお、政府発表による治安維持法の犠牲者は以下に表す通りである。明らかな虐殺―
65人、拷問・虐待が原因で獄死―114人、病気・その他の理由による獄死―1,503人、逮
捕後の送検者数―75,681人、未送検者を含む逮捕者―数10万人。『文化評論』臨時増刊、
1976年。
15 啓明女子学院の前身パルモア女子英学院(Palmore Women’s English Institute)は1923
年に創立された。明治19年に来日したアメリカ南メソジスト派宣教師J.W. ラバンス一
家が神戸の外国人居留地に創立した読書館から始まり、次第に英語の専門学校として
発展していった。しかし日本の軍国主義化が進む中で校名変更を余儀なくされ、1940
年に校名を「啓明女学院」と改称した。校名変更以来、日本の軍国化はさらに進み、当
時教鞭を執っていた外国人教師たちも次々と帰国していくこととなった。(啓明女学
院公式サイト「院の歴史」を参照:http://www.keimei.ed.jp/06rekisi.htm)
16 カール・米田著『がんばって―日系米国人革命家60年の軌跡』大月書店、1983年、70、
244頁。
17 この時期のアメリカにおける外国人共産党員の離党は激しく、1939年に10万人に達
した党員は1939年から1940年の間に約15%が離党している。芳賀武著『紐育ラプソ
ディー―ある日本人米共産党員の回想』朝日新聞社、126-129頁。
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18 アラスカ鮭缶詰工場は1871年に設立され、最初は中国人の多くが労働に就き、1903年
に日本人、そして1911年にはフィリピン人も加わるようになった。1930年には日本人
一世と帰米共産党員グループがアラスカ缶詰工場の日本人労働者の組織化を手がけ、
サンフランシスコからアラスカへ移動した日本人缶詰工は1,000人を超えていた。カー
ル・米田著、前掲書、125-132頁。
19 西山千著『真珠湾と日系人』サイマル出版会、1991年、31頁。
20 山口泰二著『アメリカ美術と国吉康雄―開拓者の軌跡』日本放送出版協会、2004年、
142頁。
21 北米新報社編『紐育便覧』1948年、北米新報社、25頁。
22 星野睦子著「日米戦争下ニューヨークの日系美術家―日系一世画家・国吉康雄の戦時
努力を中心に」『移民研究年報』2002年、43頁。
23 陸軍情報部語学学校(MISLS)に所属していた者たちが戦後、MIS協会を組織し作成
したアルバムがあり、そのMISアルバムの卒業リストから当時の所属人数を確認する
ことができる。MISLS Album. 1946。
24 同時期にニューヨークで社会派画家となった石垣栄太郎や北川民次もアート・ス
チューデント・リーグに所属していた。数十年さかのぼれば荻原守衛、高村光太郎が
学んだ学校でもある。山口泰二著『アメリカ美術と国吉康雄―開拓者の軌跡』日本放
送出版協会、2004年、53頁。
25 Kuniyoshi, Yasuo. typescript of a speech
“For Japanese American Committee for
Democracy Mass Meeting,” April 5, 1942, YK, AAA.
26 カール・秋谷一郎著『自由への道、太平洋を越えて―ある帰米二世の自伝』行路社、
1996年、231-233頁。
27 菊畑茂久馬著『フジタよ眠れ―絵描きと戦争』葦書房、1987年、114頁。
28 門池啓史著「太平洋戦争と滞日日系二世―二世教育機関に通った日系アメリカ人を事
例として」(『トランスナショナル・アイデンティティと多文化共生―グローバル時代
の日系人』村井忠政編著、明石書店、2007年、171-196頁)。著者門池は、太平洋戦争
下において日本軍として参戦した日系アメリカ人二世に関する戦争体験と彼らの日本
の教育事情に関する聞き取りを長年行っており、2004年10月には東京で「戦時下、滞
日・日系二世の集い」を開催し、国内外から多くの元日本軍日系アメリカ人二世が参
加した。このことはNHKにも取り上げられ彼らの隠された歴史的事実が初めて公で
知られる機会となった(NKHニュース「日・米両軍にわかれた日系二世」2005年8月
21日)。
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(日本語文献)
有末賢著「生活史調査の意味論」『慶応義塾大学法学研究』2000年。73.5. 1-27頁。
飯野正子著『もう一つの日米関係史―紛争と協調のなかの日系アメリカ人』有斐閣、2000
年。
エドワード・K・国府田著『国府田敬三郎伝』浜通新聞、1965年。
大谷勲著『ジャパン・ボーイ―日系アメリカ人たちの太平洋戦争』角川書店、1983年。
門池啓史著『日本軍兵士になった日系アメリカ人のアイデンティティ』修士論文、2004年。
門池啓史著「太平洋戦争と滞日日系二世―二世教育機関に通った日系アメリカ人を事例と
して」(『トランスナショナル・アイデンティティと多文化共生―グローバル時代の日系
人』村井忠政編著、明石書店、2007年)。171-196頁。
カール・秋谷一郎著『自由への道、太平洋を越えて―ある帰米二世の自伝』行路社1996年。
カール・米田著『がんばって―日系米人革命家60年の軌跡』大月書店、1983年。
菊畑茂久馬著『フジタよ眠れ―絵描きと戦争―』葦書房、1987年。
キクムラ=ヤノ、アケミ編、小原雅代他訳『アメリカ大陸日系人百科事典』明石書店、2002
年。
粂井輝子著『外国人をめぐる社会史―近代アメリカと日本人移民』雄山閣、1995年。
斎藤真、金関寿夫、亀井俊介、岡田泰男監修『アメリカを知る事典』平凡社、1986年。
桜井厚著『インタビューの社会学―ライフヒストリーの聞き方』せりか書房、2002年。
谷富雄編『ライフ・ヒストリーを学ぶ人のために』世界思想社、1996年。
筒井正著『一攫千金の夢―北米移民の歩み』三重大学出版会、2003年。
中野卓著「ライフ・ヒストリーによる人間研究」『私の履歴書』日本経済新聞社、1981年。
中野卓・桜井厚編『ライフ・ヒストリーの社会学』弘文堂、1995年。
蜷川壽惠著『学徒出陣:戦争と青春』、1998年。
西山千著『真珠湾と日系人』サイマル出版会、1991年。
芳賀武著『紐育ラプソディ―ある日本人米共産党員の回想―』朝日新聞社、1985年。
『文化評論』臨時増刊、1976年。
北米新報社編『紐育便覧』1948年、北米新報社。
星野睦子著「日米戦争下ニューヨークの日系美術家―日系一世画家・国吉康雄の戦時努力
を中心に」『移民研究年報』2002年。8.: 41-60頁。
星野睦子著「国吉康雄と1930年代ニューヨークの日系人画家―アメリカ美術家会議を糸口
として」『大学美術教育学会誌』2000年。32:275-282頁。
堀内正樹著「個人を扱う民族誌の課題―中東におけるライフ・ヒストリーなどの問題点に
ある日系アメリカ人帰米二世画家の口述生活史■
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ついて」『アジアアフリカ言語文化研究』27.1984年、110-146頁。
松田素二著「人類学における個人、自己、人生」米山俊直編『現代人類学を学ぶ人のため
に』世界思想社、1995年。
村井忠政著『日系カナダ人女性の生活史―南アルバータ日系人社会に生まれて』明石書店、
2000年。
村井忠政編著『トランスナショナル・アイデンティティと多文化共生―グローバル時代の
日系人』、明石書店、2007年。
山口泰二著『アメリカ美術と国吉康雄―開拓者の軌跡』日本放送出版協会、2004年。
山崎朋子『あめゆきさんの歌』文春文庫、1981年。
ユウジ・イチオカ著『一世一黎明期攫アメリカ移民の物語』刀水書房、1988年。
(英文文献)
Kikumura, Akemi. 1981. Through Hash Winters. Novato, California: Chandler & Sharp
Publishers, Inc.
Kuniyoshi, Yasuo. typescript of a speech
“For Japanese American Committee for
Democracy Mass Meeting,” April 5, 1942, YK, AAA.
Niiya, Brian. 2001. Encyclopedia of Japanese American History, Updated Edition. New York:
The Japanese American National Museum.
MISLS Album. 1946
Strong, Jr. Edward K. 1933. Japanese in California. California: Stanford University Press.
[何年か前に、バークレイの「きらら」という日本食の店で知り合い。次の日、家にまで遊びに行き、折鶴の絵をいただいた。もう高齢だと思うのでできれば今年にでも会いに行きたいいな。]mitomo 21010/10/16

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