2010/09/30

二度と現れない時


私が今こうしている時は消えていく。
もう二度と私の元へは帰ってこない。
だから、その時を遺そうと書いているのかもしれない。
常に止まろうとしていないものをカタチとして遺すことは可能だろうか?
いつも疑問に思うことなのだが、
書くということがどれだけ意味を持つのか。
でもこうして書いている自分がいる。
たくさんの人が社会の中でなんらかのカタチで病んでいる。
それも精神というやわらかい見えない部分で。
目に見えないこの病いは厄介なものだ。
なんでもありのこの世の中で自分を正当化することで強がっている。
自己錯乱に陥る。
さっきやった自分の行為を忘れ去ったことを、
忘れたくて自己防衛。
わかっているのにわからなかった自分がいやでやってしまう自分がいやで。
ただただ自分に言い逃れ。
さっきまでの自分は自分でないと言いたいがために言い訳を。
相手の出方を考えてもの言う。
ああ、病んでいる人々。
そんなこと私にはできない。
やろうともしないで。
その方が自分にとって都合がいいから、
前もって考えてきた言い訳。
こういわれたらこういおうと、
まるで待ち構えていたように開き直る。
病める人のひとりごと。
自分のことはいちばん自分がわかっているということだ。
前もって用意された言葉は根本からくつがえす力を持っている。
被害妄想のかけらとして他の人にささる。
なんでこんなことになる。
ストレスや疲れからくる人間の現代病だとわからない振りをする方がいい。
その方が優位にたてるから。
打ちのめされる。
答え返す余裕なんてものはない。
ああ、なっとく。なっとく。
御供 2000/9/29

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