2010/06/20

大官山の集い


料理をふるまって、
飲み物を持ち込んで集う。
そして、指輪やらネックレスを品定めして売る会の集い。
個人的な情報から呼び寄せられる。
あてもなく時間もなく集まってくるさみしがりや。
さみしがりやが孤独なわけじゃないけれど、
年を老うごとに大都会という人間の森はさびしさを増す。
それは確かなことだ。
この大都会をあてもなく歩いている。
楽しみを求めて歩いている。
人間のぬくもりを探して歩いている。
コンピュータで至福になるのはホンの一時。
泣いたり、笑ったり、会話をしたりして、
ホットする時間を手に入れる。
大切な時間を手に入れる。
それは仕事かもしれないし、
心の中にある「美」だったりするわけだ。
人間の密集している大都会で、
会ったり話たりするのは限られた少ない人間だ。
たくさんの人間の中で、
人生の中でとても少ないだろう。
だって、地球にはこんなにもたくさんの人間が住んでいる。
ある者は家もなく。
ある者は公園を住処に。
ある者は今、車の中。
もしくは列車や飛行機。
またある者は暖かい家族というものに囲まれて、
週末は美しい妻と子供。
郊外の白い垣根の家でドライマティーニを飲んでいる。
街の中の商店の二階では仲むつまじく、
TVを観ている者もいるだろう。
飛行機の小さな窓から下界を見下ろせば、
それぞれの場所にいろいろな光がある。
赤く輝き人間の性を癒すところ。
ほのかなろうそくの光で瞑想にふけるところ。
蛍光灯の人工的な光の中で勉強している光。
暖め合ったり、
ののしり合ったりしている家々。
たくさんの光の中にたくさんの人生がある。
誰もが願ってそこにいるわけじゃない。
自分が選んでそこに居る人だっているんじゃないかな。
私はこうしてペンを走らせて、
わけのわからぬ散文を書いている。
集いをそうそうと引き上げるとしよう。
「人間の出会いは、実に不可思議なものである」
ある出会いを通して世の中が急に広がったり、
人生が思わぬ方向に動いたりする。
いわば「出会いの連鎖」を誘発していく。
喜びも悲しみも、
そして目前に広がる有様も。
人生のすべては物質であり、
脳の中にある現象でしかすぎないのか。
それでは寂し過ぎる。
もったいない。
私の脳の中は違うものをとらえてやまない。
世界をより深く感じたりする。
物質文化の社会で大量生産された醜いものに、
それにさえも愛情を感じるのだ。
あまのじゃくな私の目で見て欲することを行う。
だって、私はなんにつけても自分の意見を持っている。
さみしがりやではあるが群れたりはしない。
スーツを着て白い車に乗って、
ブランド品など身につけない。
たくさんのものを観て来た私の目は、
あるモノを、そして人間を一瞬で好きになったりする。
受け付けなかったりもする。
そのワガママは仕方ない、
それが私なのだから。
私は社交的のわりには人みしりをする。
エネルギーを磁場のように感じ取るアンテナがある。
人が集まるところにいて的確な言葉をパッと返して、
不思議なチャネラーを感じる。
集うところで、
同時に7人の話を聞いている。
笑いを与えてあげたり、
ひとつひとつに答えたりする。
そんなことをよく考えるよ。
でも、本音を言うとしゃべらないでいることだと解ってる。
世の中に対して「あかんべぇ」と言っているヤツの中にいる。
その方が居ごこちがいいかな。
今はもっとも世の中が頼りない時代だからね。
有名だろうが、無名だろうがかまやしない。
自分の道の上をゆっくりと歩きつづける。
ヒップだと言ってゆるされる雰意気でいたいんだ。
人たちが狭い地球に住んでいても、
すれ違わないのが大都会さ。
東京もいいけれど、
3ヶ月以上いると一回くらいはどこかに出て行きたくなるよ。
ひとりでふらりと旅に出たいな。
知らない街に行って、
満月の夜をさまやいあるくのもいいね。
今は代官山の集いに行こう。
   御供

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