2010/05/25

子供たちに幸せを


母は我が子を無条件で愛するものである。
私は絶対的に愛されていた。
これは何千年の昔から変わらない。
人が愛というものを知るのはこの母の愛からである。
しかし、幼い時にこの母の愛と、
社会的に生きる父の愛がともなわなえばいい。
そうでなければ子供は自己中心の状態の中に閉じ込められる。
社会のルールの学習。
他者への認識。
共に生きる原則。
世の中はその人が何をしたかのみ評価する。
本当にそうなのだろうか。
子供は父親を通じて学ばなければならない。
これはある意味で抑制と断念を学ぶことである。
この過剰時代にあって最も難しいこと。
抑制と断念を学ぶことである。
子供たちが欲しがる魅力的な商品はいたるところに溢れている。
それを買い与えることは親にとって少しも難しくない。
むしろ買い与える方が容易なのだ。
ルソーは言う。
『子供を不幸にする一番確実な方法は何か?それはあなた方が知っているだろうが、それはいつでもどこでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ』
子供は夢中になったものを容易く手に入れる。
成長とともにそれは忘れ去られ、
ゴミの山となっていくという事実。
そしてある日、下校して子供たちは母に言う。
『あの子はコンピューター・ゲームを買ってもらった』
子供は買ってくれといっているのではない。
だがその頃の歳頃は、
夢中になって子供心に新たに火がついているものを欲しがる。
それを明暸に語っているだけなのだ。
流行なものを買い与えれば、
現代社会の生産=消費の悪循環の中に組み入れられる。
そして買い与え、
子供の欲望の肥土に手を貸す。
大きくなるにつれて欲しがるものは、
パソコンになり、
AV機器になり、車になりーーーーーーーーーー。
『拒絶に慣れていない子供は欲しいものが手に入らないということを、拒絶したことを一層辛く考えることになる』
そして親に反発するのである。
大部分の贅沢なもの。
多くのいわゆる人生の慰安物は人類の向上について不可欠でない。
積極的な妨害物なのである。
贅沢と慰安に関して異論はある。
最も賢い人々は貧乏人より、
もっと簡素でモノに頼らない生き方をしている。
ソローは言う。
『人間が生きるには何が必要で何が必要でないかを徹底的に考えるんだ』
一時期彼は都市を捨てて森にこもった。
家を作り、すべて自給自足の生活をやってのけた。
そして生について思索を深めた。
『子供がそれだけ多くのものを持てば、それだけ多くの生命は疎外される』
人々が夢中になって騒ぐものはたいしたものではない。
それを手に入れるために躍起になって奇走するーーーー。
そうしたことは子供たちにとって何の幸福ももたらさない。
奔放している時は、
渇望するもに幸福があると思っているけれど、
それが手に入るやいなや幸福に終止符をうつ。
再びそわそわしはじめ、
まだ手に入れていないものを欲しがる。
人が持っていればうらやましがる。
心の平安はいたずらな欲望の充足によって生じるものではない。
反対にそうした欲望の棄権によって生じるものである。
真実であると確信したいなら、
そうした虚しい欲望を満足させてみたらいい。
キミが今日まで注いできた努力を半分でもいいから、
それらの欲望からの脱却に注いでみるがいい。
キミはまもなく、
多くの平安と幸福を獲得できることを発見しよう。
所有は人を欲望の悪循環の中に投げ込むだけである。
それにはこれで満足という限度がない。
所有することではなくいかにあるかということ。
子供たちは最も関心をはらわなければならない。
とくに、現代社会においてそうだと言える。
子供たちに幸せを。
   H.MITOMO
PS:ブータンで言う幸福度に似ている。

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