2010/03/28

人生を演ずる


人はみな自分の人生を演じる。
それは当たり前のことだと誰もが言う。
人はひとりで生まれて来たわけじゃない。
誰もが目覚めた時、思い出を鞄に詰めて旅に出る。
何のための旅なのか?
何を探しに行くのか?
それは決まっている、自分自身を探しに行くのさ。
そして気づく者もいる。
人生はより良く演ずることだと。
何も持たなければ失うものもない。
演技は上手くいくかじゃない。
成功するか失敗するかでもない。
自分自身を磨き、
未知なる時間の先端を輝かしいものにするか、
しないかなのかもしれない。
終わりのない旅は今も続いているのさ。
どんな気がする。How dose it feel.
ああ、どんな気がする。As how it feel.
人間はみなひとりだと。To be one your own.
帰って行く家もなく。With no direction home.
誰にも知らない生き方を。Like a complete unknown.
転がる石のように。Like a rolling stone.
はじまりの告知。
虚空の無音。
沸き上がる心の中の叫び。
ひとつひとつの瞬間が、
演技の中に閉じ込められた。
未来まで含み込んだ意味のある最高の演技。
演技の頂点を目指してる者たちよ。
演技のジェット機に乗り込んだ者たちは多くいる。
洪水のように押し流されて、
勢い良く頂点に出る。
追い抜かれて追い越してということを繰り返している。
不安と可能性の複合物。
スクリーンに映し出される自分を、
現実とひとつながりのものと考えているかのように。
日常はどれも新しく珍しく興味深い。
演技として見るならば、
目的は頂点に達することではない。
世界の歩みを止めて、
新しい型の再出発を促すことであるかもしれない。
頂点とは何なのか?
富と名声を得ることなのか。
賞賛と憧憬の的となることなのか、
いや違うはずだ。
自分が存在したこと、
この演技を後世に残すことであるのか?
宙に漂い。
未来の世代に受け継がれ、
すでにこの世にいない者たち。
彼らの耳にまで届くかもしれないものを生むことなのか?
自分の演技で時代を味方に、
時代の演技を発見することなのか。
何を求めて生というものに向かって旅をするのか。
楽しさとスピードと興奮であるのか、
そんな図式は馬鹿げている。
演技に疑問を持ち、
疑問を感じず、
何の疑問も考えないで、
生きていくふりを拒絶していくことなのか。
『明日なき世界』に向かって、
その背後にあるもの。
人種差別、
戦争、
欲、
飢餓、
虚空の世界、
世界が滅びていく。
終末論が人の心を捉える演技であるのか。
演技の住む世界は全ての者が競い合っているのか。
明確な線が引かれてはいないが、
演技という衣を脱ぎ去ることなんだと思う。
風が吹き、
時代は変わるが、
ハッキリと心の声が語りかけて来るのが聞こえる。
容易な人生を生きて来た人間に対し、
現実が厳しくなることもあるのだと警告しているのかもしれない。
その役になりきることによって、
自分が自分であるという権利が出てくる。
それは衝撃的であり感動的である。
長い年月の中に隠されていると確信する。
すべての映画がそうであるように、
時代の到来を予言する。
この考えは無限のニュアンスを含んでいる。
演技には怒りと復讐心、
意地悪な笑い、
皮肉、
倦怠、
亡霊、
説教、
と様々なものが含まれている。
演技の中にはたくさんの欲望がある。
たくさんの力が型を変え繊細な感性となって存在する。
大地が放つごく微細な振動も逃さず、
検知する繊細な感性である。
それは古代ギリシャでも、
現代のロシアでも同じ感性なのだ。
激しく揺れ始める世界の風景を見下す感性なのだ。
決断の本質とは何か?
過去を捨てて、
未知で不確実で混乱している未来を選托するかしないかの決断だ。
食べるものもなく、
家もなく、
ただ疾走するだけの貨物列車に乗るかと問いかけているかのようだ。
演技はひとつの時代から、
次の時代へ。
ひとつの型から次の型へ、
つねに動き続けている。
それを誰かが止めておこうとしても、
決して止まることはない。
つねに新しい肉体、
新しい音、
新しいテクノロジーを求めて動いている。
演技という旅を繰り返し続けているのだから。
演ずるということは、
新しい声を求めて旅をしているのだ。
   御供    2011/12/18    12/6/10

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